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さて、斯界の大御所をもって自任するらしきTK氏が、加護亜依の件に引き続き、またしても捨て置けぬことを述べている。
そこで、前回同様に、まったく気は進まないが、この「モーヲタテキスト界隈」で意見を述べる者の倫理的な責務を果たすため、純粋な応答責任の負担として、一言問題点を指摘しておく。
これを「批判のための批判」などと考えるヲチスレ界隈の住民の目には、節穴ほどの視力もなく、その頭脳には、ミジンコほどの良識もないと言うべきだ。
わたしの言説がこの界隈に及ぼしうる影響力など、無に等しいことは自覚しているが、せめて、その主張の内容は、虚心に受け止めてもらえれば幸いである。
以下、引用はすべて、「モー神通信」(2007.6.12更新分)からである。
アイドルは自分のプライベートでの恋愛を犠牲にする。そのようなアイドルをファンが応援する。それが
契約とは、両当事者が、法律効果の発生を求めて、互いに意思表示し、その意思表示が合致することによって成立し、成立すれば、互いに権利を有し義務を負うという、法的な拘束力を持つ法律行為である。
このような契約関係があるとすれば、ファンは応援するという債務を負い、アイドルはパフォーマンスを提供するだけではなく、恋愛を犠牲にする債務(法的な義務)を負うというのだ。TK氏はそれを
噴飯物である。
相手方に恋愛しないことを求める権利など、公序良俗違反として無効となる(民法90条)ことは、当然である。
仮にそのような契約が成立したとして、アイドル側が債務不履行した場合、ファン側は、裁判所に「処女回復請求権」を行使してアイドルの恋愛の差し止めや撤回を求めることが出来るか。出来る訳がない。そのような契約には訴求力は認められない。
従って、そのような契約が仮に成り立つとしても、それは、当事者間でのみ効力を有する(訴求力のない)自然債務のみを負わせるものだと考えられる。
だとしても、アイドルの恋愛が発覚したときに、事務所やアイドル本人に対して、恋愛差し止め請求など出来ようはずがないのは同様である。
では、せめて、恋愛の発覚という債務不履行によって損害が生じたと主張し、損害賠償を求めることが出来るか。それすら出来ようはずもない。
結局、この「契約」というのは、ファンの側が「裏切られた」と感じてアイドルの応援をやめる、というそのときに、自己を正当化する体のいい言い訳として機能するより他に意味のないものである。
もちろん、事実としては、そのような契約など、どこにも存在しない。
もちろん、「モーニング娘。としての約束」なども、どこにもなかったはずだし、少なくとも私個人は、そんな約束をした覚えはない。
(この法律的比喩を続けるならば、そのような存在しなかった「モーニング娘。としての約束」を持ち出し、「それを破ったからケジメとして脱退します」、といって一方的に「契約」を解除するほうが、余程不当だと私は思う)
さて、そのような「契約」の存在を
と述べている。その理由は、
という点にあるという。予想通りというか、ある種の「理屈」が通っている点が、面白いのだが。
つまり、氏は、モーニング娘。が全盛期のように売れていて、「ハロプロ構造改革」のような
そこには、現実を生きる少女の現実の幸福を犠牲にして成立するアイドルという制度そのものに対する問題意識は、微塵もないと言うべきだろう。
近時、そのような「アイドルの前近代的制度性」が、大衆、とくに若い女性の共感や支持を得られなくなったことが理由で、アイドルシーンは衰退した、という指摘がなされている。わたしもその解釈を支持する。
その「衰退」(アイドル冬の時代)の後に、あえて「アイドル」を自らの人生として引き受け生き抜く姿を見せたモーニング娘。は「アイドル」であると同時に「『アイドル』を批評する存在」でもあったはずだ。
しかし、そんなモーニング娘。であるにも関わらず、ファンの中には、時代錯誤としか思えない旧態依然たる「アイドル処女幻想」に依存する者が多数いる。むしろ、そういうファンに現在もなお「アイドル」が支えられている、という動かしがたい現実がある。あまりの虚脱感と無力感に、深い溜め息が出るばかりだ。
情けないとしかいいようがない。
無論、歴史上、偉業と称されるような英雄的な仕事を成し遂げた人は、多かれ少なかれ、仕事のために私生活を犠牲にしているものだ。
しかし、それは自ら望んでそうするべきものであって、事務所に命令されて従うといった性質の話ではない。
それに「アイドル」というタレント活動は、そのような、偉業と称されるような英雄的な仕事とまでは通常言えないであろう。
(わたしがこう言ったからといって、「モーニング娘。は信じられないほど素晴らしい存在だ」と私自身が考えていることと、いささかも矛盾するわけではない。その素晴らしさは「処女性の保持」とは無縁に成立しうるものである。言い換えれば、モーニング娘。の成し遂げた偉業は「処女性の保持」とは何の関係もない)
しかも、あろうことか、氏は、
として、尚も、石川梨華(と新垣里沙)には、「処女性の保持」を望むというのである。
この二人だけは、おそらく「モーニング娘。は処女性を保ってほしい」(テレビ東京菅谷社長)というファンの身勝手な要望にも応え続けてくれるであろう、と期待されているのである。
「処女性」を期待されなかった高橋愛様をはじめとするモーニング娘。の皆様、まことにご愁傷様でした。
という(シャレにならない)冗談はさておき。
その前段にも大きな問題点がある。
そう決め付けることほど、彼女らにとって酷いことはないだろう。
話を戻して、石川梨華が保っているとされる
曖昧な文面からは明らかではないが、それが「アイドルの処女性」ないし「アイドルの処女性に基礎付けられる価値」を指すであろうことは、読み取れる。
これは、男の身勝手な欲望の肯定そのものに他ならない。
おそらくフェミニズム的立場からは、そのような男の横暴を打破するために、石川梨華と新垣里沙こそ率先してそのような価値を放棄すべし、という主張もありうるところだろう。わたし自身はフェミニズム言説に与するわけではないが。
しかし、少なくとも私は、「処女性を保持すると期待できるか否か」という性差別的、女性蔑視的基準によって、石川梨華、新垣里沙と、他のメンバーを区別するようなマネだけは、自らに固く禁じたい。
ところが、もちろん氏は、違う立場を鮮明にする。
それは、文面全体から明らかなように「アイドル=処女幻想」、もう少し穏健に言えば「アイドル=清純幻想」である。
氏を
当初から、非処女であると考えるのが自然であった中澤裕子さんは、氏にとってアイドル失格だった、眼中になかった、ということなのか。
また、同じ冗談を繰り返すのは気が引けるが、高橋愛以下の、他のメンバーは、氏から期待されていないらしい。それに、久住さんや光井さんが、わが身を犠牲にして「幻想」の延命を図ったとしても、それは氏の救いにはならないらしい。なんとも失礼な話であるように感じるのは私だけであろうか。
しかも、全文の締めの言葉もふるっている。
この
A:「今まで処女性を保ってくれてありがとう。これからは非処女であることを前提に、今までどおり応援し続けます」
B:「今まで処女性を保ってくれてありがとう。非処女であることが明らかになったあなたがたに用はありません。さようなら」
極めて好意的に読めば、Aである可能性もないとはいえない。(あるいはA、Bの中間である可能性も)
しかし、文面全体が「アイドルの処女性」という反動的な価値を、何の疑いもなく称揚するものである以上、Bであると読むのが自然であろう。
Aという態度を取りうる、と言うのであれば、そもそも、ここまでして「アイドルの処女性の保持」を願う必要もないからだ。
従って、この最後の部分は、「わたしは処女性を放棄したアイドルは応援し続けられない」さらに一般的に「処女性を放棄したアイドルはファンから見捨てられる」という言外のメッセージを読者に伝える言葉として機能する。
そして、そのことによって、「アイドルは処女性を保持せよ」という反動的な要請を支持し、少女の現実の幸福を犠牲にして成立するアイドルという制度をさらに強化して延命させることに加担するのである。
私自身は、藤本美貴がフライデーされても、モーニング娘。でい続けてほしいと切実に願い続けている。新垣里沙や亀井絵里が同じ目に遭ったとしても、同様に彼女らを応援し続けるし、モーニング娘。を辞めるな、と願うだろう。
妹重に、姉重には彼氏がいるらしいとバクロされても、裏切られたといって姉重フォルダを削除したりしない。ん?
フライデーごときでガタガタ騒ぐな、とばかりに、堂々とシラを切りつづけ、モーニング娘。でいつづけ、そうして「アイドルという制度」に揺さぶりをかけてほしいと夢想する。
しかし、経済原則に従って動く現実社会にあって、その可能性が限りなく無に近いこともまた自覚してはいる。
処女は金を生み、非処女は生まない。
その冷酷な経済的事実が、乗越え不能な巨大な壁となり、眼前に屹立するばかりである。
そこで、前回同様に、まったく気は進まないが、この「モーヲタテキスト界隈」で意見を述べる者の倫理的な責務を果たすため、純粋な応答責任の負担として、一言問題点を指摘しておく。
これを「批判のための批判」などと考えるヲチスレ界隈の住民の目には、節穴ほどの視力もなく、その頭脳には、ミジンコほどの良識もないと言うべきだ。
わたしの言説がこの界隈に及ぼしうる影響力など、無に等しいことは自覚しているが、せめて、その主張の内容は、虚心に受け止めてもらえれば幸いである。
以下、引用はすべて、「モー神通信」(2007.6.12更新分)からである。
アイドルは「恋愛」という思春期における重大なファクターを犠牲にして仕事に専念し、ファンはそれを応援する---言うまでもなくそれは理想的なアイドルとファンの契約関係であり、相互依存関係です。この私であっても、「そうあれかし」と願う気持ちはあります。
アイドルは自分のプライベートでの恋愛を犠牲にする。そのようなアイドルをファンが応援する。それが
理想的なアイドルとファンの契約関係だという。契約!
契約とは、両当事者が、法律効果の発生を求めて、互いに意思表示し、その意思表示が合致することによって成立し、成立すれば、互いに権利を有し義務を負うという、法的な拘束力を持つ法律行為である。
このような契約関係があるとすれば、ファンは応援するという債務を負い、アイドルはパフォーマンスを提供するだけではなく、恋愛を犠牲にする債務(法的な義務)を負うというのだ。TK氏はそれを
「理想的」な関係として
「願う」というのだ。
噴飯物である。
相手方に恋愛しないことを求める権利など、公序良俗違反として無効となる(民法90条)ことは、当然である。
仮にそのような契約が成立したとして、アイドル側が債務不履行した場合、ファン側は、裁判所に「処女回復請求権」を行使してアイドルの恋愛の差し止めや撤回を求めることが出来るか。出来る訳がない。そのような契約には訴求力は認められない。
従って、そのような契約が仮に成り立つとしても、それは、当事者間でのみ効力を有する(訴求力のない)自然債務のみを負わせるものだと考えられる。
だとしても、アイドルの恋愛が発覚したときに、事務所やアイドル本人に対して、恋愛差し止め請求など出来ようはずがないのは同様である。
では、せめて、恋愛の発覚という債務不履行によって損害が生じたと主張し、損害賠償を求めることが出来るか。それすら出来ようはずもない。
結局、この「契約」というのは、ファンの側が「裏切られた」と感じてアイドルの応援をやめる、というそのときに、自己を正当化する体のいい言い訳として機能するより他に意味のないものである。
もちろん、事実としては、そのような契約など、どこにも存在しない。
もちろん、「モーニング娘。としての約束」なども、どこにもなかったはずだし、少なくとも私個人は、そんな約束をした覚えはない。
(この法律的比喩を続けるならば、そのような存在しなかった「モーニング娘。としての約束」を持ち出し、「それを破ったからケジメとして脱退します」、といって一方的に「契約」を解除するほうが、余程不当だと私は思う)
さて、そのような「契約」の存在を
「願う」TK氏ではあるが、しかし、氏も、
だからと言って彼女たちに恋愛を自重しろとは言えません。
と述べている。その理由は、
「果たして今のモーニング娘。がその犠牲に値するか」あるいは「今のモーニング娘。がそれを強制できる環境か」
という点にあるという。予想通りというか、ある種の「理屈」が通っている点が、面白いのだが。
つまり、氏は、モーニング娘。が全盛期のように売れていて、「ハロプロ構造改革」のような
「理不尽」な目に遭うこともなく、メンバーが生き生きと仕事が出来る環境が維持されていさえすれば、依然として、
「彼女たちに恋愛を自重しろ」と言いつづける気でいるのである。
そこには、現実を生きる少女の現実の幸福を犠牲にして成立するアイドルという制度そのものに対する問題意識は、微塵もないと言うべきだろう。
近時、そのような「アイドルの前近代的制度性」が、大衆、とくに若い女性の共感や支持を得られなくなったことが理由で、アイドルシーンは衰退した、という指摘がなされている。わたしもその解釈を支持する。
その「衰退」(アイドル冬の時代)の後に、あえて「アイドル」を自らの人生として引き受け生き抜く姿を見せたモーニング娘。は「アイドル」であると同時に「『アイドル』を批評する存在」でもあったはずだ。
しかし、そんなモーニング娘。であるにも関わらず、ファンの中には、時代錯誤としか思えない旧態依然たる「アイドル処女幻想」に依存する者が多数いる。むしろ、そういうファンに現在もなお「アイドル」が支えられている、という動かしがたい現実がある。あまりの虚脱感と無力感に、深い溜め息が出るばかりだ。
情けないとしかいいようがない。
無論、歴史上、偉業と称されるような英雄的な仕事を成し遂げた人は、多かれ少なかれ、仕事のために私生活を犠牲にしているものだ。
しかし、それは自ら望んでそうするべきものであって、事務所に命令されて従うといった性質の話ではない。
それに「アイドル」というタレント活動は、そのような、偉業と称されるような英雄的な仕事とまでは通常言えないであろう。
(わたしがこう言ったからといって、「モーニング娘。は信じられないほど素晴らしい存在だ」と私自身が考えていることと、いささかも矛盾するわけではない。その素晴らしさは「処女性の保持」とは無縁に成立しうるものである。言い換えれば、モーニング娘。の成し遂げた偉業は「処女性の保持」とは何の関係もない)
しかも、あろうことか、氏は、
私は勝手ながら石川さんにだけはそれを---私生活を犠牲にすることを---望んでいたいのです。どんな時でもひたむきであり続けた彼女までがその価値を放棄したなら、それはおそらく名実共にその価値がこの世から失われたことを証明してしまうからです。
として、尚も、石川梨華(と新垣里沙)には、「処女性の保持」を望むというのである。
この二人だけは、おそらく「モーニング娘。は処女性を保ってほしい」(テレビ東京菅谷社長)というファンの身勝手な要望にも応え続けてくれるであろう、と期待されているのである。
「処女性」を期待されなかった高橋愛様をはじめとするモーニング娘。の皆様、まことにご愁傷様でした。
という(シャレにならない)冗談はさておき。
その前段にも大きな問題点がある。
石川さんだけが、どのような過酷な状況の中でも、常に全力で仕事に取り組んできました。
石川さんだけが! では、矢口真里は、加護亜依は、辻希美は、藤本美貴は、「常に全力で仕事に取り組んで」は来なかった、とでも言うつもりなのか。
そう決め付けることほど、彼女らにとって酷いことはないだろう。
話を戻して、石川梨華が保っているとされる
「価値」とは何か。
曖昧な文面からは明らかではないが、それが「アイドルの処女性」ないし「アイドルの処女性に基礎付けられる価値」を指すであろうことは、読み取れる。
これは、男の身勝手な欲望の肯定そのものに他ならない。
おそらくフェミニズム的立場からは、そのような男の横暴を打破するために、石川梨華と新垣里沙こそ率先してそのような価値を放棄すべし、という主張もありうるところだろう。わたし自身はフェミニズム言説に与するわけではないが。
しかし、少なくとも私は、「処女性を保持すると期待できるか否か」という性差別的、女性蔑視的基準によって、石川梨華、新垣里沙と、他のメンバーを区別するようなマネだけは、自らに固く禁じたい。
ところが、もちろん氏は、違う立場を鮮明にする。
新垣さんも同様です。どんな時でもモーニング娘。への愛を失わなかった彼女が、グループに対し、私生活を犠牲にするほどの価値を見出せなくなった時、かつて私をあれほど夢中にさせた最期の幻想がこの世から消えうせてしまうのです。
「最期の幻想」(原文ママ)とは何か?
それは、文面全体から明らかなように「アイドル=処女幻想」、もう少し穏健に言えば「アイドル=清純幻想」である。
氏を
夢中にさせたというものが、かかる安っぽい幻想にすぎないとすれば、いささか驚くべきことではある。
当初から、非処女であると考えるのが自然であった中澤裕子さんは、氏にとってアイドル失格だった、眼中になかった、ということなのか。
また、同じ冗談を繰り返すのは気が引けるが、高橋愛以下の、他のメンバーは、氏から期待されていないらしい。それに、久住さんや光井さんが、わが身を犠牲にして「幻想」の延命を図ったとしても、それは氏の救いにはならないらしい。なんとも失礼な話であるように感じるのは私だけであろうか。
しかも、全文の締めの言葉もふるっている。
ただ、それでも私は、その時が来ても、彼女たちを声高に批難するのでも恨むのでもなく、せめて「今までありがとう」と言えるファンでありたいと思います。
この
「今までありがとう」という挨拶は何を意味するか?
A:「今まで処女性を保ってくれてありがとう。これからは非処女であることを前提に、今までどおり応援し続けます」
B:「今まで処女性を保ってくれてありがとう。非処女であることが明らかになったあなたがたに用はありません。さようなら」
極めて好意的に読めば、Aである可能性もないとはいえない。(あるいはA、Bの中間である可能性も)
しかし、文面全体が「アイドルの処女性」という反動的な価値を、何の疑いもなく称揚するものである以上、Bであると読むのが自然であろう。
Aという態度を取りうる、と言うのであれば、そもそも、ここまでして「アイドルの処女性の保持」を願う必要もないからだ。
従って、この最後の部分は、「わたしは処女性を放棄したアイドルは応援し続けられない」さらに一般的に「処女性を放棄したアイドルはファンから見捨てられる」という言外のメッセージを読者に伝える言葉として機能する。
そして、そのことによって、「アイドルは処女性を保持せよ」という反動的な要請を支持し、少女の現実の幸福を犠牲にして成立するアイドルという制度をさらに強化して延命させることに加担するのである。
私自身は、藤本美貴がフライデーされても、モーニング娘。でい続けてほしいと切実に願い続けている。新垣里沙や亀井絵里が同じ目に遭ったとしても、同様に彼女らを応援し続けるし、モーニング娘。を辞めるな、と願うだろう。
妹重に、姉重には彼氏がいるらしいとバクロされても、裏切られたといって姉重フォルダを削除したりしない。ん?
フライデーごときでガタガタ騒ぐな、とばかりに、堂々とシラを切りつづけ、モーニング娘。でいつづけ、そうして「アイドルという制度」に揺さぶりをかけてほしいと夢想する。
しかし、経済原則に従って動く現実社会にあって、その可能性が限りなく無に近いこともまた自覚してはいる。
処女は金を生み、非処女は生まない。
その冷酷な経済的事実が、乗越え不能な巨大な壁となり、眼前に屹立するばかりである。
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「SOMA」のオーナー石本靖幸氏との温泉一泊デートが、講談社『週間現代』で報じられた。記事の中には、加護亜依が再び喫煙している場面も目撃された、ということも記載されている。
これがきっかけになり、加護亜依は、UFAとの契約を解除するに至った。
これは、事実上の、芸能活動からの撤退を意味するだろう。プロデューサーつんくも、「芸能界復帰は無理としても、大きな意味で彼女のこれからを応援していきたい」とのコメントを出していた。復帰は無理としても、というつんく♂さんの発言は、事務所との契約解除以上に、私には重たく響く。
加護亜依の今回の行動は、これから「アイドル」として芸能界に復帰する準備を、所属事務所のバックアップの元で進めていた身として、あまりにも軽率であり、喫煙の違法性自体は軽微であるとはいえ、ファンとして到底擁護できるものではない。そのことは誰もが分かっている。
そして同時に、その「喫煙一泊デート」のお相手となった、「SOMA」のオーナー石本靖幸氏に対しても、激しい非難と憎悪の声が、ファン界隈から聞こえてくる。
私自身も、彼の行為を、積極的に肯定しようと言うわけではない。むしろ個人的には、その行動には嫌悪感を感じる。
しかし、彼だけを悪者扱いするのは公平ではないように思われる。
そこで、彼をその点に限定して擁護し、併せて一部ヲタに反省を促すのが、本論の目的・趣旨である。
彼が、ファンからここまで批判される理由は、大きく2つだと考える。
第一は、未成年者である加護亜依が横で喫煙しているのに、それを止めなかったことに対する責任の追及。
しかし、「未成年者喫煙禁止法」の規定では、未成年者の喫煙を止める法的義務を負うのは、「親権ヲ行フ者」(法3条1項)または、「親権ヲ行フ者ニ代リテ未成年者ヲ監督スル者」(法3条2項)に限定されている。つまり、当該未成年者に対する保護監督責任を負う者に限られる。実際には「親」または「未成年後見人」がそれに当たろう。最大限拡張解釈すれば、所属事務所UFAもまた、未成年タレントを指導する「監督責任者」として法的責任を問われうる(法3条2項)。
しかし、事実上の交際関係があるに過ぎない石本氏には、そのような法的責任は認められないはずだ。
もっとも、大人としての道義的責任はある、と言えよう。しかし、その道義的責任は、世の中の、自分の子供の喫煙を放置している親たちに比べれば、遥かに軽度なものだと言える。また、道義的責任とは、自ら自覚する以外になく、他人が強制できる性質のものでもないだろう。
彼が批判される第二の理由、そして実は、もっと本質的な理由は、彼が、アイドルと交際し、二人きりで温泉旅行し、それによって事実上、加護亜依のアイドルとしての将来を奪ったこと、であるだろう。
これは、法的にはなんら問題を構成しない、自由恋愛の範疇の行動である。
しかし事実問題としては、未成年のアイドルに、中年の彼氏がいることが発覚するのは命取りだ。
それが彼に対するファンからの批判の理由だ。
加護亜依からアイドルとしての将来を奪ったことに、ファンの怒りが向けられる。
しかし、この第2の点については、彼を批判できないヲタが大勢存在するはずだ。
あわよくばアイドルとリアルに知合い、付き合いたいと思って接近するヲタたちだ。
彼らを「本人接触願望系ヲタ」呼ぼう。
「本人接触願望系ヲタ」は、「本人から個人として認識され、つながりを持つことを目標とするヲタ」と定義できよう。
「本人接触願望系ヲタ」は、ほぼ二種類に大別できる。
1、あくまでも公的に許された範囲で接触を図る節度あるヲタ。これを「本人接触願望系ヲタ穏健派」と呼ぼう。穏健派は、握手会、ファンクラブイベント、新曲発表会などで、接触、会話を楽しみ、手紙やプレゼントを渡す。ラジオへ投稿することで、存在を知ってもらう。その活動の対象はあくまでも、「アイドルの公的な活動」に限定されている。
2、それと対照的なのが、アイドルのプライベート(私的領域)にどこまでも食い込もうとするヲタ。「本人接触願望系ヲタ過激派」と呼ぼう。
典型的な行動が「出待ち」である。
地方公演終了後の電車を待ち伏せ、一緒に乗り込み、移動中も集団で付いて回る。ほとんど準ストーカー行為と評価しうる。そのことを誇らしげにブログに記述するヲタも大勢いる。
あるいは、番組のロケ地情報を入手し、ロケ現場で待ち構えるヲタ。
アイドルの近親者や学校の教師などに接近し、コネクションを確立して、そこから本人への接触を図る行為。そのことを誇らしげにmixiなどで仄めかし、自慢するヲタもいるようだ。
これらは、アイドルのプライベートへの侵入行為である。
わたしは、アイドルも職業であり、オンタイムとオフタイムがあると考える。そしてオフタイムにおけるプライバシーは一私人として、当然に保護されるべきであると考える。
しかし、これらの、ヲタによるプライバシー侵害行為は、ある意味で、彼女らのオフタイムにまで「アイドル」であることを強要するものであり、プライベートな時間を奪うものである。
これを、ファンとしての適切な距離感を欠いた行為であると考えるか、違法でないから構わないと考えるか、そこに、ファンとしての倫理が、懸かっている。
「どれほどアイドルのプライベートに食い込んでも、アイドル本人が拒否していないなら問題はない」と考えるヲタ(本人接触願望系ヲタ過激派)は、その性質上、なんら石本氏と変らない。
彼らに、石本氏を批判する資格も、権利も、微塵もないと言うべきだろう。(あるいは、恐ろしいことに、彼らは、「石本氏、よくそこまでやったな、うらやましい」と考えているのかもしれない!)
そのような、「本人接触願望系ヲタ過激派」のグループに、石本氏は位置付けられるだろう。
自らの財力や、芸能界とのコネを利用して、アイドルに接近し、交際にまで至ったヲタ。
彼は、ある意味では「成功した(金星を獲得した)ヲタ」、一人の突出したアイドルヲタクとして位置付けうる、ということを確認しよう。
石本氏と、あまた存在する「本人接触願望系ヲタ過激派」との違いは、単に、「実際にアイドルと付き合えたか、あるいはそこに至れなかったか」という結果の差があるにすぎない。
モーニング娘。現メンバーの中にも、ヲタと直接的交流を持っていると雑誌でスクープされたメンバーがいる。
その問題のヲタたちは、おそらく「本人は喜んでいる、嫌がっていない、自分は拒否されていない」と考えていることだろう。
しかし、「アイドル」が「アイドル」である以上、ファンに対してあからさまな拒絶の意思表示をすることは難しい。人気商売であるがゆえに。誰それに冷たくされた、などと噂が立てばイメージが低下する。そういうアイドルというあり方自体に内在する弱みに、彼らは付け込んでいるのだという側面は否定できないだろう。
話題を転じてみる。これは、ネット上で広く知られた噂であり、その起源は、おそらく「本人接触願望系ヲタ」が、その見聞したアイドルの発言をネットに流したことである。
それは、亀井絵里の発言とされる『こっちから来たりして』である。移動の電車に乗り込んできたヲタを指して、本人が言ったと噂されている言葉である。
移動中というプライベートな時間にまで、ヲタが無遠慮に侵入してくることに対する、明らかな拒絶的感情が、この発言からは読み取れる。
ヘタレな亀が、そのような不躾なヲタにどれほど脅えたか、想像にあまりある。(うわ、あの人たち乗り込んで来たよ。困った人たちだよー。うわ、こっちから来たりして。いやだ、気持ち悪いよー(涙))
これは、アイドルが、そのような、適切な距離感を欠いた無遠慮なヲタ、倫理性を欠いたヲタにホトホト迷惑している、ということの証左でもあろう。
(この点への注:この時、実際に乗り込んできたファンが、たまたま偶然乗り合わせたにすぎないとしても、亀井絵里を批判することは断じて許されない。仮に、それが亀井絵里の勘違いだったとしても、その錯誤は、「乗り込んできたファン=どこまでもまといついてくる迷惑なファン」と短絡的に判断してしまうほどに、日頃から迷惑行為に悩まされ続けている、という事実の存在を示す証拠に他ならないからだ)
話を戻そう。
石本氏の行動自体は、加護亜依の将来を親身に考えているとは到底思えないという意味で、決して褒められたものではない。
しかしながら、彼を批判する前に、自分の非倫理的な、行きすぎた振舞いをこそ反省すべきヲタが、モーニング娘。たちの周囲に、無数にいるはずだ。
今現在、石本氏は、東京を離れ、マスコミの目を避け、目立たないように暮らしている(らしい)。おそらくは、狂信的加護亜依信者からの報復的行動や、マスコミによる、スキャンダルを求めるハイエナ的な取材攻勢を恐れての、避難行動であろうと推察される。
それが事実だとしても、それは彼自身が、アイドルヲタクとして行きすぎた行動に及んだことの当然の結果とも言え、わたしとしては同情するつもりはない。
だが、公平に考えて、すでに彼は、十分すぎるほどの事実上の社会的制裁(不利益)を受けている、とだけは言っておくべきであるように思われる。
亀井絵里さんのための追記: 彼女は、現在では、かなりアイドルという境遇にも慣れて、現場や移動中に接近を試みるヲタを見かけても、(表面上は)余裕で手を振ったりしているらしい(あくまでも噂の域を出ない情報だが)。
しかし、そのような一見フレンドリーな対応が、ヲタの勘違いを助長し、さらなる不規則行動を招き寄せること、そして、結果的に自分の首を絞める危険があることだけは、ぜひとも自覚してほしいと切に願う。
これがきっかけになり、加護亜依は、UFAとの契約を解除するに至った。
これは、事実上の、芸能活動からの撤退を意味するだろう。プロデューサーつんくも、「芸能界復帰は無理としても、大きな意味で彼女のこれからを応援していきたい」とのコメントを出していた。復帰は無理としても、というつんく♂さんの発言は、事務所との契約解除以上に、私には重たく響く。
加護亜依の今回の行動は、これから「アイドル」として芸能界に復帰する準備を、所属事務所のバックアップの元で進めていた身として、あまりにも軽率であり、喫煙の違法性自体は軽微であるとはいえ、ファンとして到底擁護できるものではない。そのことは誰もが分かっている。
そして同時に、その「喫煙一泊デート」のお相手となった、「SOMA」のオーナー石本靖幸氏に対しても、激しい非難と憎悪の声が、ファン界隈から聞こえてくる。
私自身も、彼の行為を、積極的に肯定しようと言うわけではない。むしろ個人的には、その行動には嫌悪感を感じる。
しかし、彼だけを悪者扱いするのは公平ではないように思われる。
そこで、彼をその点に限定して擁護し、併せて一部ヲタに反省を促すのが、本論の目的・趣旨である。
彼が、ファンからここまで批判される理由は、大きく2つだと考える。
第一は、未成年者である加護亜依が横で喫煙しているのに、それを止めなかったことに対する責任の追及。
しかし、「未成年者喫煙禁止法」の規定では、未成年者の喫煙を止める法的義務を負うのは、「親権ヲ行フ者」(法3条1項)または、「親権ヲ行フ者ニ代リテ未成年者ヲ監督スル者」(法3条2項)に限定されている。つまり、当該未成年者に対する保護監督責任を負う者に限られる。実際には「親」または「未成年後見人」がそれに当たろう。最大限拡張解釈すれば、所属事務所UFAもまた、未成年タレントを指導する「監督責任者」として法的責任を問われうる(法3条2項)。
しかし、事実上の交際関係があるに過ぎない石本氏には、そのような法的責任は認められないはずだ。
もっとも、大人としての道義的責任はある、と言えよう。しかし、その道義的責任は、世の中の、自分の子供の喫煙を放置している親たちに比べれば、遥かに軽度なものだと言える。また、道義的責任とは、自ら自覚する以外になく、他人が強制できる性質のものでもないだろう。
彼が批判される第二の理由、そして実は、もっと本質的な理由は、彼が、アイドルと交際し、二人きりで温泉旅行し、それによって事実上、加護亜依のアイドルとしての将来を奪ったこと、であるだろう。
これは、法的にはなんら問題を構成しない、自由恋愛の範疇の行動である。
しかし事実問題としては、未成年のアイドルに、中年の彼氏がいることが発覚するのは命取りだ。
それが彼に対するファンからの批判の理由だ。
加護亜依からアイドルとしての将来を奪ったことに、ファンの怒りが向けられる。
しかし、この第2の点については、彼を批判できないヲタが大勢存在するはずだ。
あわよくばアイドルとリアルに知合い、付き合いたいと思って接近するヲタたちだ。
彼らを「本人接触願望系ヲタ」呼ぼう。
「本人接触願望系ヲタ」は、「本人から個人として認識され、つながりを持つことを目標とするヲタ」と定義できよう。
「本人接触願望系ヲタ」は、ほぼ二種類に大別できる。
1、あくまでも公的に許された範囲で接触を図る節度あるヲタ。これを「本人接触願望系ヲタ穏健派」と呼ぼう。穏健派は、握手会、ファンクラブイベント、新曲発表会などで、接触、会話を楽しみ、手紙やプレゼントを渡す。ラジオへ投稿することで、存在を知ってもらう。その活動の対象はあくまでも、「アイドルの公的な活動」に限定されている。
2、それと対照的なのが、アイドルのプライベート(私的領域)にどこまでも食い込もうとするヲタ。「本人接触願望系ヲタ過激派」と呼ぼう。
典型的な行動が「出待ち」である。
地方公演終了後の電車を待ち伏せ、一緒に乗り込み、移動中も集団で付いて回る。ほとんど準ストーカー行為と評価しうる。そのことを誇らしげにブログに記述するヲタも大勢いる。
あるいは、番組のロケ地情報を入手し、ロケ現場で待ち構えるヲタ。
アイドルの近親者や学校の教師などに接近し、コネクションを確立して、そこから本人への接触を図る行為。そのことを誇らしげにmixiなどで仄めかし、自慢するヲタもいるようだ。
これらは、アイドルのプライベートへの侵入行為である。
わたしは、アイドルも職業であり、オンタイムとオフタイムがあると考える。そしてオフタイムにおけるプライバシーは一私人として、当然に保護されるべきであると考える。
しかし、これらの、ヲタによるプライバシー侵害行為は、ある意味で、彼女らのオフタイムにまで「アイドル」であることを強要するものであり、プライベートな時間を奪うものである。
これを、ファンとしての適切な距離感を欠いた行為であると考えるか、違法でないから構わないと考えるか、そこに、ファンとしての倫理が、懸かっている。
「どれほどアイドルのプライベートに食い込んでも、アイドル本人が拒否していないなら問題はない」と考えるヲタ(本人接触願望系ヲタ過激派)は、その性質上、なんら石本氏と変らない。
彼らに、石本氏を批判する資格も、権利も、微塵もないと言うべきだろう。(あるいは、恐ろしいことに、彼らは、「石本氏、よくそこまでやったな、うらやましい」と考えているのかもしれない!)
そのような、「本人接触願望系ヲタ過激派」のグループに、石本氏は位置付けられるだろう。
自らの財力や、芸能界とのコネを利用して、アイドルに接近し、交際にまで至ったヲタ。
彼は、ある意味では「成功した(金星を獲得した)ヲタ」、一人の突出したアイドルヲタクとして位置付けうる、ということを確認しよう。
石本氏と、あまた存在する「本人接触願望系ヲタ過激派」との違いは、単に、「実際にアイドルと付き合えたか、あるいはそこに至れなかったか」という結果の差があるにすぎない。
モーニング娘。現メンバーの中にも、ヲタと直接的交流を持っていると雑誌でスクープされたメンバーがいる。
その問題のヲタたちは、おそらく「本人は喜んでいる、嫌がっていない、自分は拒否されていない」と考えていることだろう。
しかし、「アイドル」が「アイドル」である以上、ファンに対してあからさまな拒絶の意思表示をすることは難しい。人気商売であるがゆえに。誰それに冷たくされた、などと噂が立てばイメージが低下する。そういうアイドルというあり方自体に内在する弱みに、彼らは付け込んでいるのだという側面は否定できないだろう。
話題を転じてみる。これは、ネット上で広く知られた噂であり、その起源は、おそらく「本人接触願望系ヲタ」が、その見聞したアイドルの発言をネットに流したことである。
それは、亀井絵里の発言とされる『こっちから来たりして』である。移動の電車に乗り込んできたヲタを指して、本人が言ったと噂されている言葉である。
移動中というプライベートな時間にまで、ヲタが無遠慮に侵入してくることに対する、明らかな拒絶的感情が、この発言からは読み取れる。
ヘタレな亀が、そのような不躾なヲタにどれほど脅えたか、想像にあまりある。(うわ、あの人たち乗り込んで来たよ。困った人たちだよー。うわ、こっちから来たりして。いやだ、気持ち悪いよー(涙))
これは、アイドルが、そのような、適切な距離感を欠いた無遠慮なヲタ、倫理性を欠いたヲタにホトホト迷惑している、ということの証左でもあろう。
(この点への注:この時、実際に乗り込んできたファンが、たまたま偶然乗り合わせたにすぎないとしても、亀井絵里を批判することは断じて許されない。仮に、それが亀井絵里の勘違いだったとしても、その錯誤は、「乗り込んできたファン=どこまでもまといついてくる迷惑なファン」と短絡的に判断してしまうほどに、日頃から迷惑行為に悩まされ続けている、という事実の存在を示す証拠に他ならないからだ)
話を戻そう。
石本氏の行動自体は、加護亜依の将来を親身に考えているとは到底思えないという意味で、決して褒められたものではない。
しかしながら、彼を批判する前に、自分の非倫理的な、行きすぎた振舞いをこそ反省すべきヲタが、モーニング娘。たちの周囲に、無数にいるはずだ。
今現在、石本氏は、東京を離れ、マスコミの目を避け、目立たないように暮らしている(らしい)。おそらくは、狂信的加護亜依信者からの報復的行動や、マスコミによる、スキャンダルを求めるハイエナ的な取材攻勢を恐れての、避難行動であろうと推察される。
それが事実だとしても、それは彼自身が、アイドルヲタクとして行きすぎた行動に及んだことの当然の結果とも言え、わたしとしては同情するつもりはない。
だが、公平に考えて、すでに彼は、十分すぎるほどの事実上の社会的制裁(不利益)を受けている、とだけは言っておくべきであるように思われる。
亀井絵里さんのための追記: 彼女は、現在では、かなりアイドルという境遇にも慣れて、現場や移動中に接近を試みるヲタを見かけても、(表面上は)余裕で手を振ったりしているらしい(あくまでも噂の域を出ない情報だが)。
しかし、そのような一見フレンドリーな対応が、ヲタの勘違いを助長し、さらなる不規則行動を招き寄せること、そして、結果的に自分の首を絞める危険があることだけは、ぜひとも自覚してほしいと切に願う。